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ひめゆり

正月三ヶ日が終わってすぐ、所用で沖縄に飛んで来ました。
折角の沖縄ですから、ついでに観光というのがフツーですね。所謂オフシーズンの沖縄、特に泳いだり潜ったりする予定がないのならば、日本人として訪れるべき場所があるでしょう。
日本人として、忘れてはならない出来事があるでしょう。それは…




沖縄地上戦

1945年太平洋戦争の末期
既に勝ち目のない戦争と悟っていた元総理大臣近衛文麿は、イギリスやアメリカとの早期和平の要請を天皇陛下にしていたが、それは聞き入れられなかった。
そして3月26日。遂にアメリカ軍が沖縄本島の中部西岸に上陸。凄まじい攻撃を仕掛けながら本島を南北に分割しながら制圧して来た。
硫黄島や樺太と並ぶ、太平洋戦争に於ける最悪の地上戦が、ここ沖縄にて始まったのである。

ひめゆりの塔

一方、本島にある2つの女学校。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校。この学校は県内でも狭き門の難関校で、晴れて入学を果たした女学生達は希望に胸を膨らませて通い、勉学にスポーツに励んでいたに違いない。

たがある日、そんな彼女達が突然招集された。教師及び生徒が陸軍病院に動員され、米軍の侵攻に立ち向かう兵士達の救護や看護をせよという命令が下る。
ひめゆり学徒隊の結成である。

まだ14~19才のうら若き彼女達が、いきなり爆撃で身体がボロボロになった兵隊達の世話をさせられたのだ。
「病院」とはいっても地上では爆撃されるから、医療は専ら壕の中だ。負傷兵達の呻き声や怒号が飛び交い、悪臭が充満する。寝る暇もなく働かされた。看護、運搬、伝令、そして遺体の埋葬までも。
水汲みの為に外に出た際に爆撃に遭い、命を落とした生徒もいた。
配給される食事は、一日におにぎりがたったの1個。それもテニスボール程の大きさが、次第にピンポン玉並みになったと言う。

6月18日。突然学徒隊の解散命令が下った。それでも壕の中は安全だったのに、爆弾の雨の中に彼女達は放り出された。この日までのひめゆりの犠牲者は19名、解散後はたった2日で100名を越えてしまった。手榴弾で自決した子もいた。
繰り返すが彼女達は皆、前途有望な女学生だった。

それでも壕の中には、見捨てられた負傷兵と共に残っていた子もいた。遂にアメリカ軍が沖縄を攻略し、米兵が壕に向かって投降を呼びかけたが、彼女達は「捕まる位なら死んだ方がまし」と、がんとして応じない。止む無く米軍は壕にガス弾を投入。中にいる人達を全滅させてしまった…

この壕は陸軍病院第三外科の壕で「伊原第三外科壕」と呼ばれる(病院壕は他にも何ヶ所かある)。
こうしてひめゆりの教師生徒合わせて240名中、227名が尊い命を落とした。
九死に一生を得て生き存えた生徒達は、ここに「ひめゆりの塔」を立てて供養し、その後「ひめゆり同窓会」を設立。資金を集めて1989年にこの壕の場所に創立したのが「ひめゆり平和祈念資料館」である。

2013.1.11-1
爆撃によって破壊された女学校を復元した外装

2013.1.11-2慰霊碑(左奥)

2013.1.11-3慰霊塔

館内の展示は撮影禁止である。展示室は5つに分かれ、楽しく学んでいた女学生達の様子から始まって、戦場に駆り出され、解散命令が下され、そして亡くなった方々の鎮魂の部屋へと、部屋ごとに次第に悲惨になっていく。

展示物も女学生達の持ち物、家族に宛てた手紙、医療用の注射や鋏、壕の実物大のレプリカ、彼女達の証言文や証言ビデオ等、そしてずらりと並んだ遺影…とにかく涙無しには見られない。
そして最後の展示室は来館者達が気持ちを鎮めるよう、あまり展示物の無い落ち着いた空間となっていて、目の前には亡くなった生徒達の魂に捧げられた美しい花園が広がっている。

2013.1.11-4

尚、この日の企画展では、生き残った女学生達のその後について展示されていた。
トラックに乗せられて収容所に入れられても、いつ殺されるかわからないという恐怖と不安、自分だけが生き残ったという罪悪感、いろいろと悲しい思いが交錯していたそうだ。

その後、米軍病院や孤児院で勤務したり、教員になったりして、現在まで生き抜いて来た元ひめゆり学徒の方達の証言ビデオがここでは上映されていた。



もう1ヶ所、社会科見学をして来ました。
それは那覇空港の近くにある「旧海軍司令部壕」




旧海軍司令部壕

沖縄戦での司令部の拠点として作られた、巨大なアリの巣のような防空壕である。
1944年に着工。着工とはいっても、ツルハシと鍬だけで掘られたそうな。「凄い…」の一言に尽きる。

2012.1.11-5
迷路のような通路の所々に部屋がある。

2011.1.11-6
司令官室だった部屋

2012.1.11-7
兵隊の詰所だった部屋だが、何と皆立って寝ていたそうだ。

この他にも発電室、作戦室、医療室、暗号室、幕僚室等。

1945年6月6日。米軍の猛攻によりほぼ全滅されたここの部隊の司令官、太田實少将は、沖縄県民の悲惨な体験と悲痛な思いを海軍次官に訴える電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」を打ち、5日後に他の幹部と共に幕僚室にて自決。
ここは撮影禁止ではないが、自決の際に飛び散った手榴弾の跡が生々しく残る幕僚室は、流石に写せなかった。

この地に司令部壕が建設された理由は、高台で見晴らしが良く、敵の攻撃が見えやすいからだ。

2012.1.11-8
現在、壕の周りは公園になっている。高台から那覇空港方面を臨む。

2012.1.11-9
今はふもとの町に向かって、戦歿者達の大きな慰霊塔が立っている。



この沖縄地上戦での日本側の犠牲者は188,136名。亡くなられた方々に改めて祈りを捧げると共に、もう二度とこのような悲劇が繰り返されないよう、心から願って止みません。

恒久の平和を祈りつつ、その夜那覇空港より離陸して帰って来ました。
有意義な一日でした。
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テーマ : 沖縄旅行
ジャンル : 旅行

tag : 沖縄戦 ひめゆりの塔 ひめゆり平和祈念資料館 旧海軍司令部壕 太田實

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プロフィール

Yumochan(ゆもとようじ)

Author:Yumochan(ゆもとようじ)
本名:湯本洋司
フルート&ピッコロ奏者。アレンジャー。
(属)芸大フィルハーモニア/アマデウス・クィンテット/ムラマツフルートレッスンセンター講師

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