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4月5日の雨の日に

1997年4月5日。雨。

実家の母を見舞いに行った。
母は既に肺に水が溜っている状態で、ゼーゼーと呼吸しながら病床に伏せていた。

末期癌。5年前に手術をし、更には抗がん剤による辛い治療。脱毛、吐き気、倦怠感等の症状が母を襲った。
それでも一時は回復したが、2年後に再発、更に各所に転移。徐々に身体が麻痺し、更には激痛を伴う。

あの母が…あの「オレのお母チャン」がこんな事になるなんて…夢であってほしかったのだが、目の前で苦しそうに横たわっている母、それが現実であった。

母は、僕の第1回のリサイタルのテープを静かに聴いていた。
「いよいよもうダメだよ」喋る言葉が声にならない。90歳の老婆のように見える。
「でも、こんなにみんなに迷惑をかけるんだったら、早くあの世に行きたいよ」「私の着物とか草履とかは◯◯ちゃん(嫁)にあげるね」「お葬式はあの葬儀屋さんでやってほしい」かすれた声で途切れ途切れに話す母。
ボクは母の痺れている左腕に、電動マッサージ機をかけながら、うんうんと聞いていた。腰から下はもうまったく感覚がないそうだ。「お父ちゃんたら、こんな話をすると泣くんだよまったく」自分だって泣きたいくらいだ。

僕は、その年の5月に控えているリサイタルのプログラム中の1曲、CPEバッハの無伴奏ソナタの第1楽章を母の病床の傍らで吹いてあげた。母のおかげでこんな曲も吹けるようになったのだという、感謝の意味も込めて。
母は何処にまだそんな体力が残っているのか、両手を高くあげて拍手してくれた。

…母の寝ている布団の横の障子を開けると、すぐに小さな庭が見える。
雨の中、そこにちょこっと置かれていたリンゴを食べに、1羽の鳥がやって来た。「洋司、見てごらん」と静かな感動をもってその鳥を見ていたあの母の眼差しは、自分の人生の終焉をひしひしと感じているようであった。

尽きっきりで看病していた父と妹に感謝しつつ、それでも帰らねばならない時間になった。
帰る時になって、母は「じゃあね」と僕の手を取って、ありったけの明るい顔で見送ってくれた。僕が見た母の最後の笑顔だった。

この3日後に容態が急変し、緊急入院。
病院に駆けつけた時は既に殆ど意識がなく、人工呼吸器を付けて意思疎通できない状態だが、それでも間際にある報告ができて良かったと思う。自分等に「子供ができた」という報告が。
母はしかと聞き入った様子で、満足そうに何度も頷いていた…。

そして、この年の桜が総て咲き終わって散ってしまった4月13日の丁度正午、母はとうとう息を引き取った。
享年55。

お母ちゃん、とても短い間でしたが、数々の素敵な思い出を本当にありがとう。

闘病生活、とても大変だったね。本当にお疲れさまでした。

安らかに眠って下さい。



あれから15年。今日は命日です。
母の眠るお寺に行って、お花とお線香をあげて来ました。

2012.4.13-1

短い時間でしたが、のんびりと墓標に向かって話しかけて来ました。
昔よく病室に入って行った時に、母が(嬉しそうに)言っていた「あらあら、わざわざ来んでもいいのにィ」なんて言葉が、墓標からも聞こえてくるような気がしました。

2012.4.13-2ここの桜は、今年はまだ満開でした。
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tag : 母の命日

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プロフィール

Yumochan(ゆもとようじ)

Author:Yumochan(ゆもとようじ)
本名:湯本洋司
フルート&ピッコロ奏者。アレンジャー。
(属)芸大フィルハーモニア/アマデウス・クィンテット/ムラマツフルートレッスンセンター講師

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