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卒業式の思い出

卒業のシーズンとなりました。
卒業生の皆さん、おめでとうございます。

「卒業」…先生、後輩、そしてとりわけ親にとっては感慨深いものがあります。
卒業生本人にとっては?…う~ん、確かに学校や先生とのお別れは淋しい事もあるかも知れないけど、例えば親しい友人同士なら春休み中にまだ会えるし、自分の場合は割と冷めていましたね。
特に今の子にとっては、メールやSNSがあるから尚更じゃないでしょうか?

そんな自分の卒業を思い出してみます。




小学校

「卒業証書授与式」が終わって、最後の各クラスでのホームルーム。
式よりもこのホームルームの方が、えてして感涙の時間。
担任の先生は涙で目を真っ赤に腫らしながら、黒板に大きくこう書いた。
「くるしいこと、つらいことに、ゆうきをもってちょうせんできるひとに、なってください」
と、全部平仮名で。
殆どの女子は一緒に泣いていた。男子は皆神妙な面持ちだった。
今思えば我々男子は、この若い女の先生に対して2年間本当に苦労をかけた(申し訳なかった)。
記憶が正しければ、先生にとってはこの時の自分達のクラスが初めての卒業生。万感の思いだったのであろう。

中学校

どんな様子だったか、殆ど何も憶えていない。
ただ、数名の女子が肩を組んで「巣立ちの歌」を歌っているうちに皆泣き出したのを、近くで傍観していたのが記憶に残っている。
女子は皆もう“大人”で協調性に富み、結束力もある。
それにひきかえ男子は皆”子供”でチャランポランだ。精神年齢は小学校卒業時とあまり変わらない。
自分の場合、中学には親友もいたが、嫌いな奴も多かった。そいつ等と明日から顔を合わせる事のない喜びの方が大きかったと思う。

高校

2013.3.15-1

クラスメイトが皆同じ大学を目指す特殊な学校だったので、あまり「別れ」という感覚はない。
少ない生徒数だったから、一人ひとりに管理の目が光る学校を去る事に関しては、当時はちょっとした「解放感」も感じられた。
それに何といっても、数日後には大学の2次入試を控えていて、気分はそれどころじゃなかった。
だが、北本~お茶の水という遠距離通学にもめげずに、3年間無遅刻無欠席を貫いた「皆勤賞」として、名入りの万年筆を頂いたのはとても嬉しかった。

大学

当時の学長の式辞の概要
諸君はたまたま今の4年制に従って学校を追い出されるだけ。芸術には卒業なんてない。明るい展望なんて期待するな。しかも、就職先も殆ど決まっていない君達が4月から路頭に迷う事を考えると、とてもおめでとうなんて言えない。むしろ悲惨な感覚すらある
この衝撃的な式辞に、会場内笑いと拍手が起こった。自分はこの時既にいろいろ仕事もしていたが、まさに同感であった。イイ事言うなあ。
ただ、我々の若い頃は日本が大変な時だった。戦時中や戦後にのうのうと陶芸なんかやってられない時代だった(←どうやら学長さん陶芸家だったらしい)。今この時代に芸術活動が堂々とできるのは、とても恵まれている事だ。君達は幸せだ云々」という含蓄のある話。

実際、卒業後も普通に大学に足を運び、リハーサルがあったり友達や先輩(←もまだいるのだ!)後輩と喋ったり、学友とは学外でも仕事で一緒だったり。
大学には次の日からパッと来なくなる訳ではなく、いうなればpoco a poco dim.という感覚か(ただ、国鉄の学割が翌月から利かなくなるのは痛かった)。



という訳で自分の場合、1度も涙無しの卒業式でした。
思わず涙が出たのは、子供の卒園式位なものでしょうか(笑)

そういえば自分が幼稚園を卒園した時はどうだったかですって?当然ながら何も憶えていません。
ただ、自分はもの凄い悪ガキだったので、先生方はさぞかし「やれやれ~」という気分だったでしょう(申し訳ございませんでした~m(__)m)。
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テーマ : 卒業式
ジャンル : 学校・教育

tag : 卒業式 巣立ちの歌 陶芸家 卒園式

吹奏楽部を辞めさせられた。

吹奏楽部と個人レッスン

この二者は、教わる方にとって(教える側にとっても)、時として板挟み的な問題を生ずる事がある。

フルートのパート譜が結構大変で、レッスンのエチュードまで充分にさらう余裕がなかったり…。
優秀な吹奏楽部ともなると、大会や本番は秋〜冬まで引っ張られる。音大や音高の受験が絡んでくると精神的にもキツくなってくる経験も。
何も吹奏楽部に限った事ではないが、レッスン(時には発表会)と部活の行事が重なってしまった場合も、当人はどちらを取るべきか悩む事もある。
レッスンの先生はそんな場合、部活の方を優先してあげる事になろうが、それがあまりにも重なると次第に嫌気がさしてくるだろう。先生だって仙人ではないのだ。

他にもまだあるが、長くなってしまいそうなのでやめておこう。
いやいや今日はそんな話ではなく、父の思い出話。第2弾。

2012.8.24-1
さて、そんな洋司も中学生の頃は吹奏楽部に所属していた。これは1年生の時にコンクールに出場した写真。

この頃既に、将来音楽の仕事をしたいとは考えていたが、音大進学等の具体的なヴィジョンなどはとうてい脳裏にはなく、バンドを楽しんでいた。

が、大宮の音楽教室にてフルートの個人レッスンを受けていた洋司は、2年生になると先述のような板挟みを感じ始めてはいた。

そして父である。ペンキ職人の父は、音楽に関しては全く専門知識は持ち合わせていなかったし、増してや吹奏楽などには全く興味はなかった(ただ、上の写真のコンクールは聴きに来てくれた)。

この父が、どちらかというと部活を優先していた洋司に、或る日突然キレた

父にしてみれば、折角教室に月謝を払っているのに、何かというと部活の都合に合わせたり、家でもバンドの曲をさらっていたりの洋司に対して、口には出さねど鬱積していたものがあったのだろう。

興味がなさそうに見えて、実はちゃんと観察していたのだった。

きっかけはちょっとした事だった。大宮の教室の方が何かの理由で休講だったのに、その事をすっかり忘れて出掛けようとしたのを指摘された事だった。
もう…もんの凄く怒られた。そして言われた「ヨッジ、そんなにだらしないんだったら吹奏楽部なんか辞めろ!」

この一言に洋司はショックを受けた。洋司も必死に食い下がってブラスバンドの魅力を切々と訴えたものだ。が、だめだった。一旦こうと決めたらテコでも動かない頑固オヤジ。湯本家では父親の命令は絶対である。逆らったらフルート自体吹かせてもらえなくなるかも知れない。

数日後、学校にて洋司は顧問の先生に泣くような思いで、これこれこういう理由で辞めますと伝えた。

不本意な申し出だった…つもりだが、顧問の先生はこんな事を言ってくれた。
「湯本は将来音大に行きたいんだろ?音楽高校を受けたいんだろ?実際部活やってると受験はかなり厳しいぞ。そういう意味では、俺も退部の申し出を認めるってのが親心かも知れんな。いいお父さんじゃないか」

途中で抜けることになってしまって、部員の皆には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、かくして洋司は2年生の2学期初めに吹奏楽部を退部。

その後、洋司は「帰宅部」となり、ただひたすらフルートを練習し、師匠についてレッスンを受け、そして音高に合格した。



でもあれから何十年も経って、自分は疑問に思うんです。

自分は退部して本当に良かったのか?と。
あの時はもう有無を言わせない状況でしたが、親に楯突いてまで吹奏楽をやりたい、という熱意が自分にはあったか?と。
吹奏楽部に居る居ないと音高に受かる受からないは、実際そんなには関係なかったのでは?と。
要は熱意と要領の良い練習法、そして最後は才能ではないのか?と。

自分には二者を両立する程の才能はないと見抜いていた上での、父の親心だったのかなぁ…(死ぬ前に訊いときゃよかった)。

この答えは、今同じような生徒をレッスンする立場となっていますが、永遠に判らない気がします。

いずれにせよ、部活動を引退まで続けたかったという後悔の念は、未だにちょっとだけ残っているのです。


追記:当時の母校吹奏楽部は、コンクールでもなかなか賞が貰えないというレヴェルだったのですが、自分が抜けたらいきなり入賞したそうです(オイオイ、、、)。

テーマ : 吹奏楽
ジャンル : 音楽

tag : 部活動 吹奏楽部 個人レッスン

夜汽車

2012.8.17-1

今年もお盆、そして父の命日がやって来ました。

そこで、毎年8月のお盆の時期のブログは、恒例の「オヤジ特集」でいこうかなと思っています。
塗装工、つまりペンキ屋さんだった父は頑固一徹、実に強烈なキャラクターの持ち主でした。
故に生前は、自分達に数々の忘れ難き思い出を残してくれた訳でして…。

今年の第1弾は…




夜汽車

確か小学校4年生の頃の話である。
ある日、音楽の時間で歌唱のテストがあった。課題は「夜汽車」。

いつもいつも 通る夜汽車
静かな 響き聞けば
遠い街を 思い出す


という歌詞である。
2012.8.7-2


この1番の一節だけを、1人ずつ順番に、クラスの皆の前に出て来て、先生の伴奏で歌い、席に戻るというテストだった。

洋司の直前に歌ったのが、I君という頭の良い子。普段特にライバル視などはしていなかったが、彼の歌い方が何だか凄く上手かったので、思わず洋司少年はこれに触発されてしまった。

「なにクソ!」と思った洋司は、もの凄くオペラチックな太い声でこれを歌ってやった。

いつぅもいつも とおるよ~ぎしゃ
しずぅかな ひーびききけば
とーおいまちを ぅおもい~だ~す~っ


そしたら、I君もクラスの皆も、それどころか先生も拍手喝采。好成績を修めてしまった。
今考えれば基本の基の字もない発声。よくこんなんでいい点が貰えたものである。

とにかく、この話を帰宅後に親に話してしまった事から、洋司の苦悩が始まる。

そんなによく歌えたのか。じゃ、今ここで歌って聞かせてみろ!」夕食時に父が言った。
え!? 歌うの? 今ここで? また!?
できることならパスしたかった。

だが湯本家では、父親の命令は絶対である。拒否したら食わせて貰えなくなるかも知れない。

仕方なく、その場で適当に歌おうとしたら「立って歌え!」
「え~?」えいもうヤケクソだ。「気をつけ」をして、昼間学校で歌った時と同じように「♪いつぅもいつも~」と始めた。
あの「オペラ」な声で。

「よし!ウマイな!いいゾ!」

本当に上手いと思ったかどうかは判らないが、とにかく父はどうやら洋司の「夜汽車」が気に入ったようだった。ホッとして座る洋司。

だが、父はこれで、この1回で満足ではなかった。
それからというものの、ことあるごとに洋司は「夜汽車」を歌わされた。

酔っぱらって上機嫌になると、決まって「夜汽車歌え」「♪いつぅもいつも~」

別室で勉強しているのに、わざわざ呼び出されて「夜汽車歌え」「♪いつぅもいつも~」

或る日、父は仕事仲間を何人かうちに連れて来て酒を飲んでいた。そして上機嫌で「ヨッジを呼べ」
嫌な予感が的中した。「ヨッジ、皆に夜汽車を聞かせてやれ」え”ーっ?この人達の前で歌うの!?
もーう、ホンッットに嫌だった…が、湯本家では、父親の命令は絶対である。これで不機嫌になっちゃったら、後でまた何を言われるか…。
顔を真っ赤にして、また「♪いつぅもいつも~」と始める少年洋司。

(なんでこう、いつもいつも歌わなきゃいけないんだ!?)と、あの時テストの事を喋っちゃった事を、心の底から後悔する洋司であった。



程なくして、いつしか父の頭からは「夜汽車」は走り去っていったようです。というか、幾ら何でも飽きたんだと思います。

今、この話を家族にする度に大ウケです。つくづくネタ満載のオヤジでした…。

ところで、「千の風になって」って歌がありますね。思うにあれを歌っているあの方の発声法が、まさに「夜汽車」を歌う洋司少年のそれと同じように聞こえるんですけど。

という訳で、我家では彼の事を「夜汽車野郎」と呼んでいます^o^

テーマ : 徒然なるままに…
ジャンル : ブログ

tag : 夜汽車 千の風になって 秋川雅史

修学旅行今昔物語

昨日、子供が修学旅行から帰って来ました。
行き先は京都&奈良。自分が中学生の時と同じです。

が…、

話を聞いてみると、時代が違うのか、若しくは学校や自治体の違いか、自分達の時代からすると随分いろいろ変わったものだなと思います。

特に「いいなァ~」と羨ましく思ったのがこの3点。




1.荷物

昔(自分):でっかい鞄を現地までエッチラオッチラと担ぎながら…。
今(子供):前日に学校で集めて、一気に現地宿までトラックで運んでくれる。帰りは帰郷翌日に学校に戻って来る。だから、現地での行動はリュック1つで楽々。

2.移動手段

東京~京都は普通に新幹線で。
基本的に東京駅集合&解散だが、東京駅まで(から)乗る電車は一応指定されていて、地元駅にて通過チェックがある。この点は昔も今も同じ。

尤も昔の新幹線は、あの丸い鼻の頭の「0系ひかり」。でもこれはこれで良かった。今はもう無い。
2012.5.11-1その車内で寛ぐ14歳の自分

今回は最新型の「N700系のぞみ」だったそうだ。
2012.5.11-2
上棚に殆ど荷物が乗っていないのは、荷物別送のおかげである。

だが、京都に入ってからが決定的に違う。
昔:何処に行くにも観光バスで大移動。350名余りの人数が一斉にゾロゾロ…。
2012.5.11-3

今:5名位の班に分かれて、観光タクシーや電車で自由に移動
行動範囲が広がり、食事や買物もマイペース。子供も京都のスィーツを堪能したそうな。

3.宿

昔:流石に何処に泊まったかは忘れた。ただ、昔ながらの古~い旅館だった事は憶えている。
ある日の何処かでの昼食もこんな具合。
2012.5.11-4

今:うちの子の中学校が宿泊施設として利用しているのは、京大の隣りにある寺院の旅荘だが、巷では中学生が泊まるには勿体ない(笑)という声もある位豪華な所。

食事も各部屋にて。初日の夕食は自分で焼くステーキだったそうで…。
2012.5.12-5


(番外編)金閣寺

昔:あまり綺麗ではなかった。
今:リニューアルして綺麗になった。
2012.5.12-6
右下が昔。両方共悪天候だったが、何故か雨が似合う金閣寺。



うちの子がまだ赤ちゃんだった頃、よく隣りのご夫婦にシッターをお願いしていた事がありました。
ご夫婦にはお子さんは居ないのですが、自分の親位の年齢なので、まるで孫のように可愛がって頂いたものです。
時折お互いの家で飲み会等して、親しくお付き合いさせて頂きましたが、子供が3歳位の頃、このご夫妻は事情により京都に引越して行かれました。

…あれからもう10年以上経った今回の修学旅行、このご夫妻にうちの子が今近くに宿泊している事を伝えたら、わざわざ宿まで会いに行って下さったそうです。
既に身長160cmを超え、ナマイキになった我が子を見て、ご夫妻はさぞかし驚かれたことでしょう。
でも短い時間でしたが、いろいろな話ができたそうです。

ご夫妻の気持ちを思うと、何だか自分も感動します。

テーマ : 京都・奈良
ジャンル : 旅行

tag : 修学旅行 京都 奈良 0系ひかり N700系のぞみ 金閣寺 シッター

4月5日の雨の日に

1997年4月5日。雨。

実家の母を見舞いに行った。
母は既に肺に水が溜っている状態で、ゼーゼーと呼吸しながら病床に伏せていた。

末期癌。5年前に手術をし、更には抗がん剤による辛い治療。脱毛、吐き気、倦怠感等の症状が母を襲った。
それでも一時は回復したが、2年後に再発、更に各所に転移。徐々に身体が麻痺し、更には激痛を伴う。

あの母が…あの「オレのお母チャン」がこんな事になるなんて…夢であってほしかったのだが、目の前で苦しそうに横たわっている母、それが現実であった。

母は、僕の第1回のリサイタルのテープを静かに聴いていた。
「いよいよもうダメだよ」喋る言葉が声にならない。90歳の老婆のように見える。
「でも、こんなにみんなに迷惑をかけるんだったら、早くあの世に行きたいよ」「私の着物とか草履とかは◯◯ちゃん(嫁)にあげるね」「お葬式はあの葬儀屋さんでやってほしい」かすれた声で途切れ途切れに話す母。
ボクは母の痺れている左腕に、電動マッサージ機をかけながら、うんうんと聞いていた。腰から下はもうまったく感覚がないそうだ。「お父ちゃんたら、こんな話をすると泣くんだよまったく」自分だって泣きたいくらいだ。

僕は、その年の5月に控えているリサイタルのプログラム中の1曲、CPEバッハの無伴奏ソナタの第1楽章を母の病床の傍らで吹いてあげた。母のおかげでこんな曲も吹けるようになったのだという、感謝の意味も込めて。
母は何処にまだそんな体力が残っているのか、両手を高くあげて拍手してくれた。

…母の寝ている布団の横の障子を開けると、すぐに小さな庭が見える。
雨の中、そこにちょこっと置かれていたリンゴを食べに、1羽の鳥がやって来た。「洋司、見てごらん」と静かな感動をもってその鳥を見ていたあの母の眼差しは、自分の人生の終焉をひしひしと感じているようであった。

尽きっきりで看病していた父と妹に感謝しつつ、それでも帰らねばならない時間になった。
帰る時になって、母は「じゃあね」と僕の手を取って、ありったけの明るい顔で見送ってくれた。僕が見た母の最後の笑顔だった。

この3日後に容態が急変し、緊急入院。
病院に駆けつけた時は既に殆ど意識がなく、人工呼吸器を付けて意思疎通できない状態だが、それでも間際にある報告ができて良かったと思う。自分等に「子供ができた」という報告が。
母はしかと聞き入った様子で、満足そうに何度も頷いていた…。

そして、この年の桜が総て咲き終わって散ってしまった4月13日の丁度正午、母はとうとう息を引き取った。
享年55。

お母ちゃん、とても短い間でしたが、数々の素敵な思い出を本当にありがとう。

闘病生活、とても大変だったね。本当にお疲れさまでした。

安らかに眠って下さい。



あれから15年。今日は命日です。
母の眠るお寺に行って、お花とお線香をあげて来ました。

2012.4.13-1

短い時間でしたが、のんびりと墓標に向かって話しかけて来ました。
昔よく病室に入って行った時に、母が(嬉しそうに)言っていた「あらあら、わざわざ来んでもいいのにィ」なんて言葉が、墓標からも聞こえてくるような気がしました。

2012.4.13-2ここの桜は、今年はまだ満開でした。

テーマ : 今日のブログ
ジャンル : ブログ

tag : 母の命日

プロフィール

Yumochan(ゆもとようじ)

Author:Yumochan(ゆもとようじ)
本名:湯本洋司
フルート&ピッコロ奏者。アレンジャー。
(属)芸大フィルハーモニア/アマデウス・クィンテット/ムラマツフルートレッスンセンター講師

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