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社会を渡る(?)

通勤・通学に限らず、自転車で走っていると気持ちの良い反面、いろいろな弊害や試練を感じます。

それは大きく3つにわける事ができます。

ひとつは人。つまり、込み入った歩行者、疾走する、そしてマナー違反の他の自転車
ひとつは自然。つまり、上り坂向かい風
そしてもうひとつは社会。何?とお思いでしょうが、つまり、社会が作った大通り鉄道、要するに渡る事なんです。

今日はその鉄道にスポットをあててみます。




シリーズ・チャリ人の苦悩 鉄道編

例えば埼玉から東京に向かう場合、そのまま国道17号等の幹線道路を南下するのは、手っ取り早いかもしれないが、実は遠回りになってしまう事が多い。

地図上の自宅と目的地の間に定規で直線を引き、その線からできるだけ離れないような道を通るようにすると、無駄に遠回りしないで済む。

ところが実際はそういうわけにはいかない。
埼玉と東京の間には荒川があり、そこを渡る橋は3本と限られているので、どうしてもそのどれかを通らねばならない。
渡るのに苦労するのは川だけではない。鉄道もである。意外と踏切数が限られているのだ。

自宅から上野に行く場合、渡らねばならない鉄道は、高崎&宇都宮線と常磐線の2本のみ。

新宿に行く場合は7本もある。
(直線にできるだけ沿う)(最も効率的な橋を渡る)(各鉄道をスムースに越える)という条件でコースを熟考した結果、現在のチャリ通ルートが確立した。

鉄道との交差の仕方は3種ある。つまり鉄道が空間の何処を走っているかだ。
北から順番に検証してみると…

1. JR埼京線&新幹線:高架
2013.3.8-1
荒川を渡る戸田橋付近。国道17号、歩行者用道路が複雑に絡みながら橋を渡っていく。

2. 都営三田線:高架
2013.3.8-2
これは地下鉄だが、この地点では既に地上に出ている。「志村三丁目」駅の下。

3. 東武東上線:踏切
2013.3.8-3
「ときわ台」と「上板橋」の丁度中間地点。

4. 東京メトロ有楽町線:地下
2013.3.8-4
実はこの道路の真下に「千川」駅がある。

5. 西武池袋線:踏切
2013.3.8-5
「椎名町」駅のすぐ隣りを渡る。

6. 西武新宿線:踏切
2013.3.8-6
「下落合」駅のすぐ隣りを渡る。

7. JR中央線:高架
2013.3.8-7
「東中野」駅付近。神田川に沿って走る。春は桜が綺麗。

1,2,7の高架、4の地下に関しては問題ない。

厄介なのは踏切。特に5と6は駅のすぐ隣りにあるので、比較的待ち時間が長い。
待ち時間が長いということは、それだけ車や人が溜ってくる。渡り辛い事この上ないのだ。
とりわけ6の下落合駅。下り電車が発車し、通り過ぎるのを待っているうちに、その電車から下りた客が、虫が湧き出るように遮断機の前に群がるのだ。車の前に立ちふさがる輩もいる。
このコースで自分が最も嫌いな場所である。



花粉症には縁のない自分でしたが、昨日は走っていて流石に顔に「粉」を感じ、鼻がムズムズしたり目が痒くなったりしました。
それ程多く飛んでいたのでしょうか?
そして今日も。いよいよ花粉症デビュー!?ヤだなあ〜。

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テーマ : 自転車
ジャンル : 車・バイク

tag : 自転車通勤 踏切

名刺交換のマナー

先週末、このような本番がありました。

2013.3.1-1
「アンサンブル・ウォームブリーズ ミニコンサート」

さいたま市南区内の小中学校の現・旧校長先生&PTA会長さん等、そして市長さんも交えての会合で、演奏後は同じテーブルに着いて楽しくお話しができました。

普段は朝礼や学校行事等で、生徒の前で厳粛な御言葉を宣う方達ですが、この会ではほろ酔い状態で愉快に盛り上がる、普段見られない校長先生や会長さんが見られます(笑)

ところで、こういう会では「初めまして」と名刺を交換する機会が沢山あったのですが、その時のいわゆる「マナー」について、改めて考えさせられました。




名刺交換のマナー

その基本とは、
1.名刺は目下の人が目上の人に先に出す。
この会の場合、自分は下も上もクライアントも何もないので、同時交換というタイミング。
ただ、こちらから市長さんに挨拶した時に、市長さんの方から出してきたのにはビビった。

2.立って交換する。両手で渡し、両手で頂く。勿論文字面は相手に向けて。
正式には名刺入れから出したら、その名刺入れの上に乗せて、名刺の先っぽをちょっと出して相手が受け取りやすくする。

3.当然汚れたりシワがついた名刺はダメ。
ただ、会社等に属さない個人としての名刺は、最近は手作りや手書きの物もアジがあるのでこの限りではないが、とにかく汚いのはNG。

流石は教育現場のトップ達の集まり、皆さんどんなに酔っ払っても(そんな人はいないかwww)必ずこのように交換していた。
というか、まあ社会人としては一般常識であり、自然に身に付いていることであろう。

ところが…ガクタイの場合は?

楽隊=音楽を業とする人間の俗称だが、我々楽隊同士の名刺交換はどんな風にしているか?

少なくとも自分の経験では、この会の時のような名刺交換をした記憶があまりない。
例えば、アマデウスの教員研修センターでの仕事の時の担当者の方等、一般人の方達は上記のようにちゃんと出して下さるのだが。

大体、ガクタイが名刺を交換するのはあまり「初めまして」という時ではない!
何回目かの練習の時とか本番前とか、或いは本番後の飲み会で酔っ払っている時とか、既にメール交換さえしている顔見知りとか。
ましてや名刺入れの上に乗せて両手で…なんて場面は1ぺんもみた事がない。片方が持っていない事すらしばしば。


そもそも、ガクタイが名刺を渡す意義は、まあいろいろあるが、代表的なのは「仕事下さい^人^;:」という意味であろう。だから例えばフリーの奏者の名刺には、自宅住所・自宅電話・ファックス・PCメール数種類・携帯電話・携帯メールetc、ありとあらゆる連絡先がぎっしりと書き込まれている。

そういう意味では、ガクタイが名刺を出す時のマナーは、一般の会社の人達以上に弁(わきま)えておかければならないのかも知れない。

(名刺交換のマナー 参考映像)



以上、自分の事を思いっ切り棚に上げての発言でした(苦笑)
実際、先日のこのパーティーでも、交換の仕方については反省点もいろいろありました。ガクタイって…。

今日から3月。別れと、それから新年度に向けての準備の季節でもありますが、改めてチェックすべき社会人としてのマナーは、他にも沢山あるでしょうね。

tag : 名刺交換 さいたま市南区 PTA協議会 南区連合会 仕事下さい

体罰について考える

大阪の桜宮高校、全日本柔道連盟etc.指導者の体罰問題が、このところ一気に吹き出しました。
先生の体罰といえば、自分にもヤな思い出がひとつあります。




中学生の頃、新学期が始まって間もないある日。
帰りの“学活”の時である。
担任の先生が、おもむろにこう切り出した。
「今日の昼休み、教室の窓から上履きのまま外に出てた奴がいただろう。オレは見てたんだぞ。そいつら前に出ろ!」

〇〇君もその1人だった。友達とふざけていて、そのまま外に落ちてしまい(1階なので怪我はなし)、その汚い上履きのまま教室の中へ。確かにその時30m程向かいに担任がいて、誰かと喋っていたのが見えた。
そりゃやっぱり先生も注意すべきだよなあ…そんな反省の気持ちもあってか、正直に〇〇君は席を立って教室の前に出た。
あまり憶えていないが、全部で5人位か。〇〇君はその一番端に立っていたのだが…

当時まだ20代か、この若い担任、普段は面白いいい先生なのだが、この時の怒りっぷりはどういう訳か人が変わったようだった。土足のマナーの悪さ、醜さをこれでもかという程の怒号で説き続ける。教室内最悪の雰囲気。

そろそろ謝って解放される時間かと思いきや、今度は一人一人理由を聞き始めた。
「〇〇、お前は何で土足した?理由を言ってみろ」
「友達同士でふざけてたら、くすぐられて思わず落っこち」言いおわらないうちに「ウソつけー!ウソつけウソつけ」いきなり往復ビンタをくらわせた。1,2発ではない、5~6発浴びせたか。
本当に、本当にくすぐられて落っこちたのに「人のせいにするな」と、更に何かと怒鳴る度にビンタをくらわせた。「ホントです」と泣きそうな声で弁明したのに、もはやこの人の耳には届いていないようだった。パン!パン!という音が教室内に響き渡る。
確かに誰のせいであれ、土足は土足なんだから良くない事だ。が、そんなに、そんなにクラス全員の目の前で何発もの平手打ちを浴びせなければならない程、罪な事なのか?

2番目以降の生徒はこれに相当ビビったか、深く反省しているように下を向いて弁明していたせいか、もう殴られなかった。たまたま一番端に立っていた〇〇君が、まるで主犯格のようになってしまい、理不尽な思いをしながら学活は終了。前に出た生徒だけでなく、他の生徒も皆怯えていた。

この先生は他の場面でもよく手を上げていたが、とりわけゲンコツを頭の真上から「ゴン!」と振り落とすのが痛いと、クラスのみならず学年中で話題になっていた。
言っても言うことを聞かないわからず屋の生徒に対して思わず手が出る、というのはまあ、無きにしもあらずであろう。
そうではなく先に手が出てくる”体罰先生”は他にもいて、雑巾を忘れただけで生徒の顔が腫れる程殴った先生や、期末テストの範囲を訊いただけなのに平手打ちを浴びせた先生もいた。
「あの先生は殴るから気をつけた方がいいぞ」という空気や情報が、生徒達の中では伝わっていた。

その一方で、絶対に手を上げない先生もいた。この先生は「殴ったからといって生徒は直るのか?先生はそうは思わない」と生徒の前で公言さえしていた。こういう先生もいたのである。

生徒が何か良からぬ行為をして、先生がそれを注意する時、「何やってんだお前」みたいにこづいたり、思わず頭を平手でポンッと叩く程度なら、別にそんなに構わない。だが、何発も平手打ちしたり拳で殴ったり、或いは足で蹴ったりして、生徒が内出血するところまでいっちゃうと、これはもはや教師側の気が済む為の暴力行為としかいえず、ヘタすると傷害罪である。

どこからが体罰でどこまでが体罰でないのか?或いはどれも同じ体罰だとしてもどの程度までなら許されるのか、線引きは難しい。しかし、多感な時期の学生が行き過ぎた体罰を受けた時の精神的なショックは、後々の学習活動等に悪影響を及ぼし、教育上逆効果となるのは明確だと思う。


帰宅後、〇〇君は確かに自分にも非がある訳だし、何よりこんな目に遭った事自体、やっぱり申し訳なくて親には言えなかった。父親にも怒られるかも知れなかったし、母親には心配をかけたくなかった。
とにかくこのように見せしめのようになってしまった〇〇君は、この時に受けた屈辱を生涯忘れずにいた。
今思えば、やはり親には言うべきだったのかも。

2013.2.8-1
この遠足の数日後の出来事であった。



もうお気づきでしょう。〇〇君とは自分の事です。あ、勿論今は全然気にしていません。その後の事は忘れちゃったし、普通にご指導ご鞭撻に感謝しています(笑)

自分の親の親位の世代は、訳もなく上官に殴られた戦時中の世代でした。日本ではその風潮が、暗黙のうちに伝承されているように思われます。
ですが、親や先生にひっぱたかれて育ったからといって、自分もそういう教育を次の世代にも、とはひとつも思いません。
逆に自分は絶対にそういう大人にはなるまい、年端もいかない子ども達を脅かしてはなるまいと、若い頃から思っていました(泣かしちゃった事はありますが^_^:;)。

職場(オーケストラ)でも同じです。怖い先輩達に必要以上に睨みつけられたり怒鳴りつけられたりしたからといって、同じような思いを若い奏者にさせてはいけない…そう心がけています。

テーマ : 体罰の是非
ジャンル : 学校・教育

tag : 体罰問題

ひめゆり

正月三ヶ日が終わってすぐ、所用で沖縄に飛んで来ました。
折角の沖縄ですから、ついでに観光というのがフツーですね。所謂オフシーズンの沖縄、特に泳いだり潜ったりする予定がないのならば、日本人として訪れるべき場所があるでしょう。
日本人として、忘れてはならない出来事があるでしょう。それは…




沖縄地上戦

1945年太平洋戦争の末期
既に勝ち目のない戦争と悟っていた元総理大臣近衛文麿は、イギリスやアメリカとの早期和平の要請を天皇陛下にしていたが、それは聞き入れられなかった。
そして3月26日。遂にアメリカ軍が沖縄本島の中部西岸に上陸。凄まじい攻撃を仕掛けながら本島を南北に分割しながら制圧して来た。
硫黄島や樺太と並ぶ、太平洋戦争に於ける最悪の地上戦が、ここ沖縄にて始まったのである。

ひめゆりの塔

一方、本島にある2つの女学校。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校。この学校は県内でも狭き門の難関校で、晴れて入学を果たした女学生達は希望に胸を膨らませて通い、勉学にスポーツに励んでいたに違いない。

たがある日、そんな彼女達が突然招集された。教師及び生徒が陸軍病院に動員され、米軍の侵攻に立ち向かう兵士達の救護や看護をせよという命令が下る。
ひめゆり学徒隊の結成である。

まだ14~19才のうら若き彼女達が、いきなり爆撃で身体がボロボロになった兵隊達の世話をさせられたのだ。
「病院」とはいっても地上では爆撃されるから、医療は専ら壕の中だ。負傷兵達の呻き声や怒号が飛び交い、悪臭が充満する。寝る暇もなく働かされた。看護、運搬、伝令、そして遺体の埋葬までも。
水汲みの為に外に出た際に爆撃に遭い、命を落とした生徒もいた。
配給される食事は、一日におにぎりがたったの1個。それもテニスボール程の大きさが、次第にピンポン玉並みになったと言う。

6月18日。突然学徒隊の解散命令が下った。それでも壕の中は安全だったのに、爆弾の雨の中に彼女達は放り出された。この日までのひめゆりの犠牲者は19名、解散後はたった2日で100名を越えてしまった。手榴弾で自決した子もいた。
繰り返すが彼女達は皆、前途有望な女学生だった。

それでも壕の中には、見捨てられた負傷兵と共に残っていた子もいた。遂にアメリカ軍が沖縄を攻略し、米兵が壕に向かって投降を呼びかけたが、彼女達は「捕まる位なら死んだ方がまし」と、がんとして応じない。止む無く米軍は壕にガス弾を投入。中にいる人達を全滅させてしまった…

この壕は陸軍病院第三外科の壕で「伊原第三外科壕」と呼ばれる(病院壕は他にも何ヶ所かある)。
こうしてひめゆりの教師生徒合わせて240名中、227名が尊い命を落とした。
九死に一生を得て生き存えた生徒達は、ここに「ひめゆりの塔」を立てて供養し、その後「ひめゆり同窓会」を設立。資金を集めて1989年にこの壕の場所に創立したのが「ひめゆり平和祈念資料館」である。

2013.1.11-1
爆撃によって破壊された女学校を復元した外装

2013.1.11-2慰霊碑(左奥)

2013.1.11-3慰霊塔

館内の展示は撮影禁止である。展示室は5つに分かれ、楽しく学んでいた女学生達の様子から始まって、戦場に駆り出され、解散命令が下され、そして亡くなった方々の鎮魂の部屋へと、部屋ごとに次第に悲惨になっていく。

展示物も女学生達の持ち物、家族に宛てた手紙、医療用の注射や鋏、壕の実物大のレプリカ、彼女達の証言文や証言ビデオ等、そしてずらりと並んだ遺影…とにかく涙無しには見られない。
そして最後の展示室は来館者達が気持ちを鎮めるよう、あまり展示物の無い落ち着いた空間となっていて、目の前には亡くなった生徒達の魂に捧げられた美しい花園が広がっている。

2013.1.11-4

尚、この日の企画展では、生き残った女学生達のその後について展示されていた。
トラックに乗せられて収容所に入れられても、いつ殺されるかわからないという恐怖と不安、自分だけが生き残ったという罪悪感、いろいろと悲しい思いが交錯していたそうだ。

その後、米軍病院や孤児院で勤務したり、教員になったりして、現在まで生き抜いて来た元ひめゆり学徒の方達の証言ビデオがここでは上映されていた。



もう1ヶ所、社会科見学をして来ました。
それは那覇空港の近くにある「旧海軍司令部壕」




旧海軍司令部壕

沖縄戦での司令部の拠点として作られた、巨大なアリの巣のような防空壕である。
1944年に着工。着工とはいっても、ツルハシと鍬だけで掘られたそうな。「凄い…」の一言に尽きる。

2012.1.11-5
迷路のような通路の所々に部屋がある。

2011.1.11-6
司令官室だった部屋

2012.1.11-7
兵隊の詰所だった部屋だが、何と皆立って寝ていたそうだ。

この他にも発電室、作戦室、医療室、暗号室、幕僚室等。

1945年6月6日。米軍の猛攻によりほぼ全滅されたここの部隊の司令官、太田實少将は、沖縄県民の悲惨な体験と悲痛な思いを海軍次官に訴える電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」を打ち、5日後に他の幹部と共に幕僚室にて自決。
ここは撮影禁止ではないが、自決の際に飛び散った手榴弾の跡が生々しく残る幕僚室は、流石に写せなかった。

この地に司令部壕が建設された理由は、高台で見晴らしが良く、敵の攻撃が見えやすいからだ。

2012.1.11-8
現在、壕の周りは公園になっている。高台から那覇空港方面を臨む。

2012.1.11-9
今はふもとの町に向かって、戦歿者達の大きな慰霊塔が立っている。



この沖縄地上戦での日本側の犠牲者は188,136名。亡くなられた方々に改めて祈りを捧げると共に、もう二度とこのような悲劇が繰り返されないよう、心から願って止みません。

恒久の平和を祈りつつ、その夜那覇空港より離陸して帰って来ました。
有意義な一日でした。

テーマ : 沖縄旅行
ジャンル : 旅行

tag : 沖縄戦 ひめゆりの塔 ひめゆり平和祈念資料館 旧海軍司令部壕 太田實

拝啓 85歳の洋司様

15才の少年が、未来の自分に向けて悩みを打ち明ける、アンジェラアキの「手紙〜拝啓十五の君へ」。
数年前に大ヒットし、今でも親しまれている歌ですね。

さて15才の自分といえば、丁度今から35年前。
ではもし、同じ35年後の自分に手紙を書くとしたら?




2012.12.21-1

『拝啓、85歳の湯本洋司様
先ず大事な質問。まだ生きてますか?
生きているとしたら健康ですか?体重は?血圧とかは?
あれから不健康な身体とかにはなっていませんか?まさかまだジムで重りを持ち上げてるとか!?
家族は?親戚は?友人は?皆お元気ですか?』

う〜む、50のオッサンが老後の自分に出す手紙は、やはり安否の確認か?

『世の中はどんな感じですか?大地震とかありましたか?原発はどうなってますか?地球はやっぱり熱くなっていますか?高齢者にとっては暮し易いですか?暮しにくいですか?
世界情勢はどのように変わってますか?平和ですか?それとも…。
Appleからはどんな製品が出てますか?』

全く、止め処もなく質問が出てくる。いや本当に全く想像もつかないので。

だがこうも考える。
15の自分と50の自分とではそんなに変わっていない部分もある。
人生そう簡単に安定はしないものだ。何処かしら不安なものだ。
だからこんな事を書いてみる。

『四十にして惑わずとか、五十にして天命を知るとか言われていますが、今の自分は全然そんな心境ではなく、迷い、悩んでいる感じがします。落ち着いてはいません』

あれ?ところで何で自分に出してるのに敬語なのかな?やっぱり目上だから?

こういう話に対して目上の自分は何て答えるだろうか?
あの歌みたいに『明日への岸辺へと夢の舟を進め、自分の声を信じて歩きなさい』って書くか?
それとも、『人生、まあこんなもんじゃないの?でも健康で平穏に暮らして来たからこそ、素晴らしい人生の証しなんだよ』と書くのか?

そこで、
『これまでの人生で素晴らしい体験はまあ、なかった訳ではないけど、人生こんなもんだろうとはまだ思いたくない訳です。もっと何かいい事があるんじゃないか?と。』と問うてみる。

突然85歳の洋司さんがキレた(かも知れない)。
バカ野郎!何甘っちょろい事言ってるんだ!もっと腰を据えてちゃんと生きなきゃ駄目だ。だから今の俺みたいになっちゃったじゃないか!

うんやっぱり、15才と50歳は自分の場合、あまり変わってないな。
何故なら、これと全く同じセリフで15才の自分に怒鳴りつけていたであろうから。

『ただ、やはり年齢を重ねて来た分、自分はこうだからこうなった、だからこうすればこのようになる、というような見通しが、数々の失敗を経て、少しは立つようになりました。しかしそうとも限らないのが人生です。それに、何といっても昔に比べて、そして現在に比べて"老後"が心配な未来の世の中だと思います』

ここまで(想像で)書いて、ある事に気づいた。
50歳にもなると、未来の自分に書く手紙は何かアドヴァイスを乞う手紙ではない。むしろアドヴァイスしなければならない。

『今の私は変なところでストイックで、変なところでいい加減です。そんな自分の性格故に身体を壊したり、他人に迷惑をかけていませんか?
そしてこうも問うてみる。
『自分の終焉についてはどのように考えていますか?悔いはありますか?』
また『バカ野郎!そんな事考えとらんわい』とくるかな?それとももう…。

ひとつだけ予想できる事がある。
もしこのまま大した病気や怪我もせずに長生きした場合、自分はやはりフルートは吹き続けていると思う。しかも、実年齢よりも少しだけ若さが保てているかも知れない。
何故なら、周りの大先輩フルーティストの方々が、お歳を召されても実際若々しいからだ。根拠はその呼吸法にあると思うのだが。
その意味では先程の『バカ野郎』みたいな対応は理想かも知れないが、くれぐれも周りに煙たがれない年寄りになりたいものである。

とりあえず、こう結んでおこう。

貴方が死ぬ時に(良い人生だったなあ)と思えるように、私も今からでも頑張りたいと思います



もし15の自分に今何かアドヴァイスするとしたら、何はともあれ、こう言いたいと思うのです。
洋司君、親に感謝し、そしてもっと大切にしなさい。親孝行したい時には親はなし、ですから…
(*`へ´*)\(−_−#)

2012.12.21-2

テーマ : 頑張れ自分。
ジャンル : 日記

tag : アンジェラ・アキ 拝啓十五の君へ

プロフィール

Yumochan(ゆもとようじ)

Author:Yumochan(ゆもとようじ)
本名:湯本洋司
フルート&ピッコロ奏者。アレンジャー。
(属)芸大フィルハーモニア/アマデウス・クィンテット/ムラマツフルートレッスンセンター講師

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